日大豊山水泳部の歴史

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日本大学豊山高校水泳部の歴史について

昭和52年度卒業  上 野 広 治

本年度のインターハイ総合優勝を期に本校水泳部のルーツを回顧することにした。創部時期は、明確に成らないもののプールが出来たのは、大正元年頃で水泳部もその後すぐに誕生したようである。OB名簿では、昭和19年卒業から明記されている。本校記念誌「日本大学移行20周年記念・軌跡」から歴代の顧問は、松田・山本・松井・小谷野・井上敦雄先生と記されている。部員数は中学・高校で60名である。

昭和29年、マニラで開かれた第2回アジア大会に水泳部創部初めて林務氏(旧姓長島)(昭和29年度卒)が出場。1500m自由形で銅メダルを獲得したのが、本校体育部活躍の草分けでありこの快挙も偶然ではなく、本校OBの平田文夫氏(昭和24年度卒)が、林氏の素質に目をつけ、つきっきりで指導した結果であった。

その後、入れ替りに入学してきた石井宏氏(昭和32年度卒)が徐々に力をつけ、高校2年のインターハイ・国体で好成績をおさめ、国体の時にはあと1秒速ければメルボルンオリンピックに出場できるほどの選手になった。高校3年ではインターハイで400mと1500m自由形の2種目を制覇し総合でも6位に入賞、東京出身の選手が個人タイトルに輝いたのは初めてとあって新聞はセンセーショナルに書きたてた。

当時高校選手権で活躍していたチームといえば、強豪大分県の佐伯鶴城高校を筆頭に福岡の三潴高校、伝習館。関西では、伝統の五条高校、伊都高校。関東では、安房一高と名門がひしめき、新興日大豊山が割り込む余地はまるでなかった。この年、中学では井上敦雄氏(昭和35年度卒・現日出中・高等学校長)が200mバタフライで活躍した。このあたりから東京都に日大豊山ありと名実ともに認められるようになる。

石井氏は大学進学後、アジア大会・日米対抗で活躍し、大学3年生の時にはローマオリンピック大会の800mリレーで銀メダルを獲得する。このリレー予選で石井氏は、2分7秒2で泳ぎ4人のメンバーの中で一番悪く決勝では他の選手が選ばれるだろうと、内心諦めていたとのこと。ところがそのときの日本水泳チームの監督・コーチ達が、普段の練習熱心と大試合で競えば競うほど強い石井氏の根性を知っており決勝第2泳者に出場させる。レース前の予想では、アメリカ・オーストラリア・日本の順で銅メダルがいいところだというのが大部分であった。

2位 日本 8:13.2 福井 ・ 石井 ・ 山中 ・ 藤本
(2:04.8  2:04.8  2:00.6  2:03.0)
3位 オーストラリア 8:13.8 ディクスン ・ デヴィット ・ ローズ ・ コンラッズ
(2:06.6    2:03.2    2:02.7    2:01.3)

レースは、第2泳者の石井氏と当時短距離世界1位のオーストラリア・デヴィット(100m自由形で金メダル)とが激しく競合い、最後の50mでは逆に石井氏がリードして第3泳者の山中選手(400m自由形で銀メダル)に引継ぎアンカー(藤本選手)がコンラッズに追込まれるが逃切り銀メダルに輝く。監督・コーチの石井氏・第2泳者の起用は見事的中した。

石井氏が卒業した頃から本校水泳部も次第に力をつけ、井上敦雄先生が日大豊山中学校から高校へ進むときOB会会長の井上脩氏(昭和28年度卒)が、都内の優秀な選手を勧誘する。昭和34年、井上先生が高校2年のときから井上隆氏(メキシコオリンピック代表コーチ)がコーチに就任する。井上先生によると、独特の雰囲気を持ち当時コーチの居なかった水泳部員は、たちまちその魅力と指導力・説得力に心酔し予定より一年早く東京都高校選手権初優勝を果す。その翌年、昭和35年に関東高校選手権初優勝・インターハイでは総合4位入賞と現在の基礎を作る。初優勝の要因は、井上会長が本校ではじめて「勧誘」を実施し、それらの選手が順調に成長したことが大きい。その中で会長が目をつけた福島滋雄氏(昭和35年度卒)は、高校時代まではそれほど強い選手ではなかったが、大学に進学してから頭角を現し、200m背泳ぎ日本選手権7連覇・アジア大会・日米対抗・その他の国際大会に優勝、世界新記録を樹立し東京オリンピックでは200m背泳ぎ4位に入賞を果した。福島氏は、恵まれた身体を生かし非常にフォームが美しく理想的な泳法で脚も腕も強く世界中から「福島の泳ぎを手本に」とまで言われ各国から徹底的に研究されたほどであった。

福島・福永・丸山・井上先生が卒業してから全国から選手を勧誘し、日本大学水泳部合宿所に住む。福島氏と入れ替りに入学し高知から来た石川健二(昭和38年度卒・平泳ぎ)は、林・石井・福島と違い中学時代から注目された選手で高校在学中から日本新記録を作り、数々の国際大会に出場。高校3年、大阪インターハイ(昭和38年)で本校は2位柳井商工(山口県)にダブルスコア(92点獲得)で念願のインターハイ初優勝を成し遂げた。井上隆コーチの水泳に対する情熱はすばらしく自営業(設計事務所)であったが、朝練習・午後練習でも絶対に休まず熱心に指導にあたり、5年でインターハイ優勝という快挙を遂げた。当然全くの無報酬である。石川氏は大学入学後、東京オリンピックに出場しメドレーリレーで5位入賞を果す。

昭和40年、井上敦雄氏が本校に赴任し水泳部監督に就任。しばらく国際的な選手は出なかったが、中学校から上がってきた駒崎康弘(昭和46年度卒)が中学2年頃から伸びだし高校2年のアジア大会(カンボジア)に出場、100・200mバタフライで金メダルを獲得。高校2年の時、日本選手権で200mバタフライ優勝(その後5連覇達成)し、大学1年でミュンヘンオリンピックの代表(男子4名参加)として400mメドレーリレーで6位入賞を果す。

駒崎氏が高校3年(昭和46年)インターハイでは、広島の尾道高校と優勝争いをし、最終日の最後の800mリレーで逆転され1点差で準優勝となる。この頃から尾道高校・広島工大付と二大強豪校が広島に集中するが、本校も昭和49年からは個人もしくはリレー種目で優勝(昭和59年・平成14・15・18年を除く)を果す。また、総合力としても平成7年までの22年間(優勝2回・準優勝14回・3位6回)上位入賞を果す。

インターハイ個人優勝では、特に駒崎康弘(昭和46年度卒)・高岡忠博(昭和54年度卒)・森 隆弘(平成9年度卒)は、3年間連続優勝(別途資料参照)の快挙を成し遂げる。

団体総合優勝は、昭和54年に2回目。この年は尾道高校が中京高校(愛知)に転校した年であったが、堀江・高岡の2枚看板でもともと十分総合優勝する力はあった。3回目の優勝(昭和57年)は、事前の戦力分析ではダブルスコア以上の大勝と踏んでいたが、瀬戸内高校(広島)に最後の800mリレーまで苦しめられ0.5点という僅差で勝利した。この年の戦いは、例え前評判が高くても逆に最後まで勝負は判らず、最後まで諦めないことを学んだ優勝でもあった。その後、インターハイの得点もリレーが倍得点に個人入賞も6位から8位までと得点配分もルール改正される。平成8年、最後の800mリレーで総合3位から5位に脱落したが、この悔しさをばねに翌年平成9年から本校は初の連勝(3連覇)を達成する。

最後に、このような輝かしい伝統を築いた本校水泳部には、先ほど名前をあげた選手以外に、本年に至るまで数多くの日本代表選手がいるが、次の方たちのことも紹介せねば、水泳部史は語れない。

まず、今は亡き井上隆コーチである。井上隆コーチは、昭和34年井上敦雄先生が高校2年のとき、本校コーチとなり短期間で全国制覇を成し遂げ現在の基礎を作った方の一人である。井上氏は東京オリンピック終了後、アメリカチームの強さの解明と指導を勉強に、自費で数ヶ月間アメリカに渡り水泳留学する。今では珍しくないが日本で最初であり、テレビにも現地の様子が紹介されたほどである。残念なことに亡くなってしまい、できれば私たちの相談相手として居て下さったらとつくづく思う。

次に井上脩会長と亡くなられた奥様(勝子様)である。本校水泳部が選手勧誘したのは、井上敦雄先生が中学から高校へ進むとき、会長が「敦雄が高校卒業するまでに、東京都高等学校選手権で優勝しよう」ということから選手を勧誘し、高校2年のとき予定より一年早い優勝となった。その後、井上会長に代わり井上隆コーチが都内および全国から選手を集め地方出身者は日大水泳部合宿所に入れ、本格的強化に乗り出した。その結果が昭和38年のインターハイ初優勝である。その後、敦雄先生が本校監督として赴任(昭和40年)し指導に当たったが、当時の日大水泳部監督から高校生は合宿所から出て、豊山で面倒を見て欲しいと言われ学校と会長の家から近いところにアパートを借り、食事は新婚間もない会長婦人(勝子様)が歩いて20から30分もかけ毎日通って作って下さった。会長・敦雄先生のお話ですと、この頃が居番辛かったという。なぜなら、当時学校からの援助はなく、といって日大水泳部合宿所の寮費(5,000円)以上は徴収できず、食費・アパート代を考えたらとてもやっていけない為、会長・敦雄先生の給料・ボーナスから残額を全て賄っていたが、そのうち人数が増え、部屋もその分借りなくてはならず、お二人の援助ではやっていけなった。ちょうどその頃、敦雄先生が大学時代の水泳部監督であった村上勝芳氏が、日本で最初のスイミングクラブを作り、その内の1クラスを分校のような形で本校水泳部の練習後、プールを使用していた。その村上氏が敦雄先生に「このクラスを全部お前に渡すから指導しろ」という話になり、会長・敦雄先生が相談し、そのままそっくり引継ぎ、その会費でようやく寮代わりのアパート生活が続けられるようになった。そのスイミングクラブが現在の音羽スイミングクラブである。今は少子化の影響で会員も少なく、赤字にならない程度であるが、選手強化のなどの力になっており、コーチは本校OBだが非常に熱心に指導してくれ会長・敦雄先生はじめ監督・コーチ・選手は心より感謝している。

その後しばらくして、現在のところに合宿所(昭和43年)ができ、ようやく選手は運動部らしい生活が可能となった。その間の会長・敦雄先生はもちろんのこと、会長夫人(勝子様)のご苦労は言葉では言い表せないくらい辛かったと思う。また、敦雄先生が結婚されてすぐの頃、奥様(幸子様)が寮生の昼の弁当を作り学校へ届けて下さった。その後、合宿所では、賄いの方々を頼み食事から寮の管理まで親代わりをしていただいた。原・有賀夫妻には永年に渡りお世話になった。その後、学校関係者が勤めるようになり三輪(事務職)夫妻が12年近く面倒を見てくださった。

何度か新築の話はあったが、平成3年現在の体育実習棟(寮)が完成。建て替えの約2年間、東武練馬にマンションを借り、毎日、敦雄先生のお宅でコーチを含む食欲旺盛な約15人がお邪魔して夕食をいただいた。また、幸子様以外に柳澤昌則先生の奥様(睦子様)も手伝いに来てくださり家庭的で暖かいものを出して下さった。

平成3年に現在の合宿所が出来てからは、私が結婚したので選手と一緒に住み、食事は妻(眞智子)が作り、夕食は敦雄先生の奥様(幸子様)、柳澤先生の奥様(睦子様)が加わり毎日手伝って下さった。また、井上家の長女(恵様)、柳澤家の長女(優子様)も学校帰りに寄って手伝いに加わってくれたことは、妻(眞智子)は今でも感謝している。10年間の選手と一緒の生活は、プライバシーが殆ど無く、妻は子育てと同時に食事の支度。選手の生活(精神面など)の様子などに神経を遣ったので、私も言うのもおかしいが、本当に大変だったと思う。

現在、寮は竹村知洋監督夫妻が私に変わり、生活しているが私たち同様のことをしてもらっている。その為、奥様(香織様)も一生懸命やっておられるが、やはり精神的、肉体的な疲労、苦労は大きいと思える。妻に感謝する気持ちは、会長ご夫妻・井上隆コーチ・敦雄先生ご夫妻・柳澤ご夫妻・竹村ご夫妻に対しても同様である。いずれも皆無報酬であり、この情熱・熱意が本校水泳部の伝統を作ったものと確信している。

この度12年前と同じ岩手県盛岡の地で7回目の総合優勝を成し遂げた。昨年まで暫く関東大会でも優勝できなかったチームであったが、“豊山魂”は消えることはなく、最終種目の800mリレーで見事に愛知県豊川高校を1点逆転しての劇的な勝利であった。個人優勝は無くリレー全ての3種目制覇であり、正にチームが一丸となった最高の勝ち方であった。

本校水泳部のルーツを回顧してみて改めて半世紀以上にわたり本校水泳部が成長できたのは、学校側が非常に協力的に応援して下さったこと、水泳部のOBの方達が陰の力となり、選手の指導及び経済的にも多くの援助をして下さったことにあると確信した。

また、どのスポーツも同じだと思うが、どんなに監督が熱心でも一人では限度がありこの先、伝統ある本校水泳部が更なる躍進する為にも学校側の協力・先輩方の援助が不可欠あるので宜しくお願いしたい。

最後にルーツを回顧するため井上会長、林・石井両副会長、井上敦雄元監督からお聞きしたことを紹介した次第である。

新校舎竣工 新プールへ

平成5年度卒業  竹 村 知 洋

平成27年3月、地下2階地上11階の新校舎が完成し、新たな時代がスタートした。11階に25m10コースの温水プール、トレーニング室がある。プールは眺望良好の明るく広々とした空間で、プールの水は災害時に非常用の生活用水やトイレの洗浄などに利用可能であり、プールサイドには上から全体を見渡すためのバルコニーも設置されている。

旧校舎のプールは6コースであり、プールサイドや1コースの幅も狭いものであったことを考えると、トレーニング環境として大幅に改善された施設である。2017年の部員数は中学・高校あわせて約200名が在籍しているが、Bチームが同じ時間に全員がプールに入ることができ、プールサイドで体操や補強運動を行うこともできる。泳力に応じて練習メニューを分けることもできるため、各コーチがそれぞれの練習グループを分担することで、よりきめ細やかな指導ができるようになった。

2011年のインターハイ総合優勝後、戦力不足から成績低迷した時期もあったが2017年に中学・高校共に日本一の成績を上げることができたのは新校舎の完成によりトレーニング環境が整備されたことが大きい。

2014年より板橋区の体育実習棟には専任教諭となった安村亜洲が共に生活をしている。

全国中学校、インターハイで同じ年に総合優勝ができたのは日本大学豊山中学・高校水泳部の歴史と伝統の力である。それを支えている背景には学校側のクラブ活動に対するご理解、育友会をはじめとする保護者の応援、そして水泳部OB会等の様々な方々のご支援がある。その支えによって水泳部の歴史と伝統は守られ、今回の成果につなげることができた。

ここであらためて関係各位に感謝し、さらなるご指導ご鞭撻をお願いする所存である。

新校舎プール写真

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